世界の終わりと取引基本契約書

いわしの悪ふざけ

株式会社いわし(以下、「僕」という)および株式会社さわら(以下、「きみ」という)は、きみが壁の向こう側からこちら側に持ち込んだ羊(以下、単に「羊」という)をめぐる継続的な取引を行うことを約束し、入口の穴を開くための暗号のようなものを交換する。

第1条(本契約の目的)

 この物語は、僕ときみの間における羊をめぐる継続的な取引について、ごく基本的な事柄を文章にした。とはいえ、完璧な契約書など存在しない。完璧な絶望が存在しないように。

第2条(個別契約の成立)

あるいは僕たちは、ここで取り決める物事のほかに、もっと多くの事柄を話し合い、分かり合う必要がある。ひとつ何かを得ようとするなら、その分ひとつ差し出さなければならない。そんなとき、僕たちは「個別契約」と呼ばれる文章を取り交わすだろう。

僕はきみに「注文書」と呼ばれる手紙を送り、きみは「注文請書」を僕に届ける。そうして僕たちの取引は成立する。これがこの世界の側にあるシステムと呼ばれるものだ。僕たちは居間のソファで並んでウイスキーを飲みながら窓の外が明るくなるまでそれについて話し合った。

しかしそれでも、すべての事柄が想定通りに進むとは限らない。夜が明けても僕が僕のままでいつづけられる保証はどこにもないし、それはきみのほうも同じだ(目覚めたときに巨大な毒虫になっていないとは断言できないのだ、誰にも)。

そんなときには僕たちはまた語り合わなければならない。すっかりまるごと裸になって、それぞれの事情を交換する。そしてシステムを原則から例外に切り替える。

最初にも言ったように、完璧な契約書など存在しないのだ。

「完璧な下請法対策も存在しない?」

「もちろん」

僕は言った。少なくとも、今のところ僕は完璧な下請法対策など見たことがない。

深い井戸の底にもぐっても、僕たちはそれを見つけることができないのだ。

「井戸を掘るのは個人事業主に任せてしまえばいいわ」彼女はあきれたように言った。

「それはできない」僕は首を振った。

「どうして?」

「フリーランス新法がある」

きみは窓の外を見た。夏が終わり、11月が近付いている。

第3条(引渡し・受入検査)

 きみは個別契約に従い、羊たちを持参または送付して僕に引渡す。きみは、僕が受領するまで善良な管理者の注意義務をもって羊たちを庇護し、かつ、僕の受領までに発生した羊たちに関わる一切の費用および損害を負担する。

「善良なる管理者? 私が善良かどうか、そんなことどうやって証明するのかしら?」

きみはペーパークリップの形を変えて爪の甘皮をいじりだした。腹を立てているのだ。控え目に言って、とても。

「善良さは証明するものではない。たぶん」

「たぶん?」

きみは赤いインクのペン(それはかつて僕がどこかの旅行の土産として彼女に買ってきたものだった)で力強く打消し線をひいた。

「こんなこと約束できないもの」

「でも僕たちはこれを無視することはできない」

「どうして」

「民法400条だって、特定物の引き渡し前には善良な管理者の注意義務を定めている。特定の羊がいればもちろん不特定な羊もいる。でも僕が求めているのは特定の羊だ。特定の、替えのきかない羊」

「私よりも民法が大切?」

「あるいは」

僕は言った。

我々は民法を無視するわけにはいかない。民法はメタファーであり、イデアなのだ。

2.僕は羊たちを受け取ったあとで、羊に対し1頭1頭、話しかけ、彼らの持つ物語を聞く。必要があれば僕はその作業を誰かに任せることもある。

そんな風にして僕は羊を受け取り、そしてきみに対して確かに羊だ、と告げるだろう。

「あなたがその合否を決めるの?」

「そうだ」

「善良な私が、善良なあなたに、善良なる羊を与え、そして合格の印をもらう」

「その通り」

きみは羊の絵をかき、その上に赤い丸の印を加えた。

「僕はきみに14日以内に連絡する。それでいいね?」

「せめて1週間以内に連絡がほしい。私にも、羊にも、予定がある。もしあなたが1週間以内に連絡をくれなかったら、善良な羊はそっくりあなたのものになったと決めてしまいたい」

僕はしばらく考えてそれを承諾した。我々は常に公平で対等な話し合いを続けてきた。善良なのだ。

「それで、もし不合格なら、きみは羊たちを引き取ってほしい」

「私のスバル・フォレスターで?」

「そう。きみのスバル・フォレスターで」

我々はしばらく、スバル・フォレスターが不合格の羊をのせて港町を走るところを想像した。その車内はいささか窮屈になるだろうが、仕方がない。受入検査とはそういうものだ。善良であるためにはいくばくかの犠牲を払わなければならない。

第4条(所有権の移転と危険負担)

 僕が合否をそっくり決めてしまうことによって(あるいは僕が1週間彼女に電話のひとつもしないとすれば)羊たちの所有権はきみから僕に移転する。そのあとで羊たちが損なわれるようなことがあれば、それは僕が負うべき責任だ。

第5条(契約不適合責任)

 もし羊たちがそっくり僕のものになったあとで羊たちに不適合が発見された場合、僕は速やかにきみに通知し、きみは無償で当該不適合を修補、または同種の良品と交換する。

「不適合?」

眉をしかめてきみは言う。

「瑕疵担保責任のことは知っているね?」

瑕疵担保責任。懐かしい響きだ。あのころ、我々は安田講堂を占拠し、マンモスを狩っていた。

「もちろん。契約不適合責任って、瑕疵担保責任とおなじ意味かしら?」

僕は説明をしようとして、しかし少し考えてやめた。何をどう説明してもわかってもらえる気がしなかった。瑕疵担保責任と契約不適合責任は、イデアとメタファーくらい違う。

「とにかく」

僕が修補または交換を催告したにもかかわらずきみがそれを履行しない場合、僕はきみに対し不適合に応じた減額を請求できる。

「そのかわり、私がそれに応じるのは引き渡し完了の日から6ヵ月。その後のことは知らない」

「いいよ」僕は言った。

第6条(代金支払条件)

 僕はきみに、まとめて金を支払う。紀伊国屋でレタスを買うのとは違う。

   締日:引渡し月の末日

   請求書締切日:締日翌月第3営業日必着

   支払日:締日の翌月末日

支払条件:きみが指定する金融機関へ振込む

第7条(機密保持)

「秘密保持の話はもうすでにしたね?」

「ええ、もうたくさんよ」

第8条(不可抗力)

 地震、台風、津波その他の天変地異、戦争、暴動、内乱、テロ行為、重大な疾病・感染症の蔓延、法令・規則の制定・改廃、公権力による命令・処分その他の政府による行為、争議行為、その他不可抗力による本契約の全部または一部の履行遅延、履行不能については僕もきみも、どちらもその責任を負わない。

「権力なんてクソだ」と五反田君は言った。

「何か言ったかしら?」

「何も」

我々はしばらく黙って、それぞれの権力や戦争あるいは暴動について考えた。我々の意識は井戸の底にもぐり、壁の向こう側をさまよい、そしてゆっくりと戻ってきた。

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第9条(反社会的勢力の排除)

もし僕やきみが、暴力団を始めとする反社会的勢力(以下、「やみくろ」という)に関して次のいずれかの事実があったとき、僕たちの取引は最初からなかったことになる。

①きみもしくは僕がやみくろだったら。

②きみもしくは僕が、やみくろと関係を有していたら。

③きみもしくは僕が、やみくろと知りながら誰かに仕事を依頼していたら。

「私の友達にやみくろはいないわ」

「最近のやみくろは、自分をやみくろだと紹介しない。彼らはどこまでもタフで、そして邪悪なんだ」

「どこまでもタフで邪悪。公権力のように?」

「公権力なんてクソだ」

「カッコウ」

第10条(権利義務の譲渡の禁止)

 両当事者は、相手方から書面による承諾を得ない限り、本契約または個別契約により生じる一切の権利または義務を第三者に譲渡し、もしくは継承させ、または担保に供する等の処分をしてはならない。

「少しいいかしら、ワタナベ君?」

「なんだろう」

「さっきから、あなたの言っていることが少しも理解できないわ。一体何をそんなに警戒しているの?」

「僕はきみ以外の、知らない誰かに金を請求されたくない。もちろん、払うつもりもない。それだけのことだよ」

「だったらそう書けばいいじゃない。どうしてそれができないの?」

僕は少し黙った。

「契約書とは、そういうものなんだ。好むと好まざるとにかかわらず」

きみはわざと音をたててグラスを置いた。

「そういうのってすごくばかみたい」

第11条(規定外事項)

 本契約に定めのない事項またはいずれかの条項の解釈に疑義が生じた場合、両当事者協議のうえこれを解決する。

「これだってそうよ。こんなこと書かなくたって何かあれば私はあなたに電話する」

「もちろんそうしてほしいと思っている」

僕は昔付き合っていた女の子たちのことを順番に思い出した。それぞれひどい別れ方だった。話し合うべきことはたくさんあったのに、後には手紙一枚残していかなかった。もちろん電話をかけてみても、その番号はどこにもつながらない。

「うまくいっているうちに、すべて決めてしまいたいんだよ。わかってほしい」

「わからないわよ。絶対に」

きみはまだ知らないのだ。人の──私人であろうと、法人であろうと──気持ちなど、簡単に変わってしまうということを。

第12条(合意管轄)

 本契約あるいは個別契約により生ずる権利義務に関する訴訟について、両当事者は東京地方裁判所を専属の管轄裁判所とすることに合意する。

「訴訟?」

きみは目を大きく見開いて言った。

「本当にあなたどうかしているわよ。どうして私とあなたが訴訟なんてしなければならないの?」

きみはものすごく腹を立てているようだった。

「いままで私たちはとてもうまくいっていた。お互いの大切なものを交換するためにずいぶんと長い間話し合いもしたわ。挙句、突然訴訟だの権利だの言いだして、あんまりだわ」

「これが我々の雛形なんだ。修正はできないよ」

「雛形がそんなに大切なら、雛形と契約すればいい」

雛形と契約する──?僕はひどく混乱した。

正直に言ってしまえば、それは僕が求めていることの一つでもあった。そうすれば、法務部からごちゃごちゃ言われることもない。

きみは電子契約がいいと言ったが、僕はやはりそれを断った。

僕の考え方はトレンディーではないし、スマートでもない。

「収入印紙が必要だ」

僕が言うと、きみはあきれたようにソファに深く背を預けた。

「あなたは何でも私から持っていくのね」

「振込手数料は僕がもつよ」

「だったらそれも書いてちょうだい。法務部にごちゃごちゃ言われる前に」

「連中のことは放っておけばいいさ」

本件契約の成立を証するため本書2通を作成し、当事者が記名押印の上、各1通を保有する。

前のお話

最後にCMです

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