スパゲティーをゆでているときにはすでに妻は僕に対し深く腹を立てているようだった。遠い宇宙のはずれに放り出されたスプートニク号にだって、もう少しましな沈黙があったはずだ。
「ねえ」
彼女は台所にいる僕にむかってどなった。
彼女の右手には、僕が昨日新宿に出かけたときに立ち寄った本屋で買った小説が握られている。
彼女が僕の所有物に興味を示すのは珍しいことだった。
「あなた、一体どうしてこんなものを買ったのよ?」
僕はスパゲティを入れた鍋の火をとめて妻の顔を見た。それから彼女が手に持っている2冊の小説を見た。彼女が何を言おうとしているのか、僕には見当がつかなかった。
「よくわからないな」と僕は言った。
「ただの小説だよ。スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』とスタンダールの『赤と黒』だ。確か過去にも持っていたかもしれない。でもなくしてしまったんだ。春がくれば雪も溶ける」
「小説を買うのはかまわないのよ。グレート・ギャツビーでも罪と罰でも好きにしたらいいわ」
「赤と黒。罪と罰は……」
「私がきいているのは、どうして楽天スーパーセール中に、その辺で小説を買ってきたりしたのっていうことよ」
「まだよくわからないな」僕はスパゲティをざるにあげた。妻の話を聞いたちょうど30秒分、麺はやわらかくなっている。
「たしかに僕は昨日通りがかりの書店で小説を2冊買った。君になんの相談もなく。僕は君に財布の中身をそっくり見せて、今月はこれだけのゆとりがあるから、小説を2冊買っても構わないだろうか。そのかわり新しいテニスシューズは我慢するよ、と宣言するべきだった?」
「あなたは何もわかってないのよ。私と一緒に暮らしていても、なにひとつわかろうとしていないんだわ。小説を10冊でも20冊でも買えばいい。テニスシューズだって買えばいいわ。でも───」
妻は立ち上がると、それ以上何も言わずに部屋を出ていった。
「スパゲッティは」
「食べたくない」
渡辺いわし、かく語りき。
夜になっても妻が戻ってくる気配はなかった。
僕は気になって、妻が言う「楽天スーパーセール」をパソコンで検索してみた。
僕にはさっぱりわからなかった。
どこで買っても小説は小説であり、白熊にも裁判所にもなりえない。インターネットで本を買うと結末が異なる?
「ポイントですよ」
猫が言った。
「ポイントって、くだらないな」
僕は大きなため息をついたあと、やれやれ、と声に出して言った。妻は出ていき、飼い猫がしゃべりだした。
妻が結婚前から大事にかわいがっていた猫だ。
名前はいわしと言った。トラの模様のついた、どっしりとした雌猫だった。
「あなたがくだらないと思っても、彼女はそう思わないかもしれない。あるいは」
猫──いわし──はまばたきをすることなく、パソコンの前に座る僕の足元にじっと座り、話し始めた。
「あるいは、彼女にとって、ポイントこそ世界のすべてなのです」
「そんなのってあまりにばかげている。たかだか10ポイントや20ポイント、僕がその分を彼女にくれてやってもいい」
「たかだか10ポイントや20ポイント?」
猫は笑った。
「ねえ、渡辺様。世界はそんなに単純じゃありません。たとえばその本。あなたは1冊1600円で買いましたね?」
「たしかにそうだ」
「そしてこの家では、5万円のオーブンレンジの購入を検討している。違いますか?」
「それもその通りだね。でも、オーブンレンジとグレート・ギャツビーにどういう関係がある?」
猫はやれやれ、というように僕を見た。それは妻の表情とそっくりだった。
「渡辺様、あなたは奥様のいうように、まったく、なにも、わかっておられないのですね」
猫のいわしはソファに移動し、妻が置きっぱなしにしているストールの上に寝そべった。
それから僕は、いわしの長い話を聞くことになる。
楽天で本を買うことについて語るときに、いわしが語ること
「楽天スーパーセールあるいは楽天お買い物マラソンは」と猫のいわしは話し始めた。僕はコーヒーをいれて、猫のいわしには牛乳を置いた。置時計がこつこつと乾いた音を立てる。
いわしは牛乳を一度だけ舐めると、もう結構、というように僕のほうを見た。僕は牛乳をさげた。
「いくつかの商品を、ある一定の期間中に複数購入すれば、購入数や購入金額に応じてポイントがたまるしくみです」
「なるほど」
「渡辺様は先ほど10ポイントや20ポイント、とおっしゃいましたが、そうではありません。たとえば、5万円のオーブンレンジ、1600円の本を2冊。それからあと日用品をいくつか。もしそれだけをこの週末に渡辺様が楽天で購入したとしたら、どれくらいのポイントが贈られると思いますか?」
猫は僕の顔をじっとのぞき込むようにして言った。
「見当もつかない」
「あなたの奥様ならきっと、1万ポイントほど、獲得されると思いますよ」
1万ポイント?僕はおどろいて猫を見た。猫もじっと僕を見ている。
「さきほど渡辺様は、本などどこで買っても同じとおっしゃいましたね」
「言ってない。思っただけだ」
猫は大きくのびをして目をかいた。
「たしかにおっしゃるように、書籍には再販売価格維持制度というものがございます。書店で買おうがインターネットで買おうが東京で買おうが島根県で買おうが、同じ価格で、同じ内容です。でも、楽天で買えば、それもイベントの期間中に買えば、あるいは1割または2割に相当するポイントが付与されます」
「楽天ポイントってそんなに価値のあるものなのかな」
「楽天ポイントは楽天市場だけではなく、コンヴィニエンス・ストアやスーパー・マーケットでだってお使いいただけます。ほとんど現金と同じ価値です」
「ということは、実質、1割引で本が買えるということになる?」
「そういうことになります」
猫は後ろ足を使って器用に耳の後ろを掻いた。
「渡辺様が毎月読みもしないのに買ってこられるその本たちの、すべての1割分を計算できますか?」
「相当な金額になる」
「新しいテニスシューズだってきっと購入できるでしょう」
「そんなばかな」僕は頭の中でざっと計算する。テニスシューズどころではない。
楽天で本を買うと訪れる福音、あるいはSPUについて
テーブルの上には小説が2冊。コーヒー。それから朝食用に妻がたくさん買い込んでいるパン──コモパンというらしい──が2、3並んでいる。
僕はそのうちのひとつの封をあけてかじる。賞味期限まであと1か月もある。パンの賞味期限がそんなに長いなんて、保存料がたくさん入っているんじゃないかと最初は疑ってかかったが、慣れてしまえば気にならない。
妻が見つけてきて、もう2年ちかく、僕たちの家にはパンが常に数十個常備されている。
そういえば僕は昼にスパゲッティを食べてから、何も口にしていなかった。もう20時を過ぎている。妻はまだ帰らない。
「オーケー、楽天お買い物マラソンで複数のものを購入すればそのポイントとやらがたくさんもらえる。ここまでは僕も理解した。それで……彼女が特に本にめくじらをたてるのはどういうことなんだろう」
「SPUですよ」
「SPU……?」
猫のいわしはまた、“そんなことも知らないのか”という顔をした。
僕は冷めてしまったコーヒーをあたためなおしてテーブルに座りなおした。2個目のコモパン──クロワッサンを選んだ──を開けると、ひとかけら猫に投げた。
猫はうまそうにそれを食べたあと、SPUについて話し始める。
「楽天はあらゆるサービスを網羅的に提供しています。銀行、保険、証券、インターネットサービスにモバイル事業」
「それは知っている。特にモバイル事業は──」
「渡辺様、この世には言うべきことと、言うべきでないことがあります」
僕は口をつぐんだ。
猫は気を取り直したように姿勢を正すと話を続ける。
「楽天のあらゆるサービスを利用すれば利用するほど、楽天市場での買い物で有利になる。それがSPUです」
「SPU…」
「スーパーポイントアップ」
「ばかげている」
僕は思わずふきだした。
「楽天ブックスという楽天が運営する書店があります。ここで毎月3000円以上、商品を購入すると、楽天市場での買い物の際に0.5%分、ポイントが加算されるのです」
「0.5%って、それこそ10ポイントとか20ポイントの世界じゃないか」
「オーブンレンジを5万円で購入するとしましょう。通常のポイントは1%です」
猫は音もたてずにソファから降り、ゆっくりと部屋の中を歩きだした。
「いいですか。なにもしなければ、付与されるポイントは500ポイントです。しかし楽天カード利用だと3%になるので1500ポイント。さらに5のつく日だとプラス2%ですから5%で2500ポイント。そしてその月に楽天ブックスで3000円以上の購入があるとプラス0.5%ですから、2750ポイントです」
このあたりから猫は早口になり、僕のこめかみはずきずきと痛み出した。
「そして先ほど申し上げました通り、お買い物マラソン期間中に複数のお店を買いまわっていれば、さらにプラスで9%です」
「つまり…7250ポイント」
「渡辺様の奥様はほかにもいくつかの楽天サービスをご利用になれています。携帯電話。楽天ひかり、楽天証券、楽天のクレジットカード、先月のご出張では楽天トラベルも利用されていましたね。美容院は楽天ビューティーを使って予約されています。それらはすべて、SPUの対象です。ざっと、プラス10%になる計算です。」
僕が言葉を失っていると猫はダイニングテーブルの椅子にひょいと上って言った。
「渡辺様が召し上がっているそのパンは1日に決済すればさらにポイントプラス20%、コーヒーは5のつく日にプラス10%になるお店で購入されています」
猫はもう一度、僕の目をじっとのぞき込んだ。
「もう一度お伺いしますが、ポイントが些末なものだと、渡辺様はおっしゃいますか?」
もしウイスキーがなくなりかけていたとしたならば。
猫はそれきり、黙ってしまった。ひどく酒が飲みたい。僕はコーヒーを流しに捨てて、戸棚を探した。カティサークが瓶の底に2センチほど残っている。
グラスに多めに氷を入れて、大事にそれを飲む。
僕はパソコンにもう一度、「楽天スーパーセール」と打ち込む。
ウイスキー。パン。コーヒー。オーブンレンジ。
そして読みたいと思いながら先延ばしになっていた小説──プルーストだ──を次々とかごに入れていく。
そのとき、妻がしずかに帰ってきた。
ひどく暑い夜だった。半熟卵ができるくらいの。妻は黙っていた。しばらく僕も黙っていた。猫のいわしは何もなかったかのように眠っている。
「ねえ、僕が間違っていた。今日は大事な日だ」
「なんの日だったかしら──?」
「5のつく日だ」
妻は控えめにいってものすごくチャーミングに笑った。
あとがきにかえて
完璧なポイ活などといったものは存在しない。完璧なエントリーが存在しないようにね。
渡辺いわしはあなたのために、今日もエントリーをお知らせします。